第三コーナー回ったあたり

日記とエッセイ。頭の中を掘り返すための。時々短歌。

滅茶苦茶であるという評価とその影響

絵が下手である。

それでも子供のころはお絵描き遊びが好きでらくがき帳に色々と描いていた。出来不出来は関係なく、好きなものを好きに描くのが楽しかった。

 

幼稚園に入るか入らないかの頃、絵画の教室に通ったことがある。通った、というより数回行っただけのような気がする。行きたいと言った覚えはないので、たぶん絶望的な私の絵を心配して親が通わせようとしたのだろう。
先生はちょっと気難しそうな年配の男の人でベレー帽をかぶっていた。絵に描いたような「画家」の風情だった。


教室ではどんな絵を描いたかは全く覚えがないけれど、素焼きの器、たしか灰皿だったと思うがそれに絵の具で色を塗る課題が出た日のことだけはよく覚えている。
灰皿はカエルの恰好をしていた。ほかにうさぎなんかの可愛い動物の形の器もあったけど、早い者勝ちだったのでもっと大きいお兄さんやお姉さんが先に手に入れてしまっていた。つまりカエルは残り物だった。

 

絵の具なんて見るのも触るのも初めてで、要領のよくわからないままにカエルに塗りたくっていった。その結果、茶色や灰色や深緑色が混ざった迷彩柄のカエルが出来上がった。今から思えば結構リアルなカエルっぷりだったかもしれない。
先生はそんな私の作品を見てポツリとひと言「…滅茶苦茶やな」。滅茶苦茶なのは迷彩ガエルなのかそれを塗った私なのかはわからないが、たしかにそういった。ああ、パレットはたしかに滅茶苦茶だったと思う。勝手がわからず全部の色を混ぜてしまっていたような気がする。しっかり混ぜていたら黒に近い色になっていたのかもしれないけど、混ぜ方もいい加減だから迷彩色になったのだろう。


いずれにせよ、先生の表情からは忌々しさが見てとれたので幼児の私も呆れられたのだと悟った。それでなくてもカエルだし、出来あがってみれば綺麗とは言えない色味だし、ひとつもテンションの上がる要素がない上、とどめに「滅茶苦茶」と言われたのは幼心にもかなりショックだったのだと思う。何十年も経った今でもはっきり覚えているぐらいだから。
先生はそんな滅茶苦茶のカエルをおもむろに持ち上げて、黒の絵の具でイボの部分をちょんちょんと塗り始めた。迷彩柄の部分もいくらか手を入れた。かくして出来上がったのはより本物っぽいカエル感を纏った灰皿。リアルかもしれないが可愛くはない。幼児には渋すぎる仕上がりだ。そしていつまでも頭の中でリフレインする「滅茶苦茶やな」という言葉。


それきり絵画教室に行くことはなかった。

そして、図画工作や美術に4以上の成績がついたことのない、絵を描くことがすっかり苦手になった大人がここに出来上がった。

丸は四角を兼ねないフライパンと卵の話

卵料理というのは奥が深い。そもそも卵というのはたんぱく質の塊だから一度熱を加えると性質が変わる、つまり熱で固まってしまうと二度と元には戻らない。だからこそ加熱調理には手際の良さが求められるがいまだに得意ではないし、ついでに卵を割るのも下手くそだ。


そんな手ごわい食材だけど、生まれて初めて作った料理は目玉焼きだった。卵が一個あれば出来上がる料理だから簡単といえば簡単だけど、理想の目玉焼きをつくるのはそう簡単ではない。
小学校のたぶんまだ低学年の頃だったと思う。母に手ほどきを受けながら初めて目玉焼きを焼いた。出来がどうだったかは全く覚えていないが日曜日の朝食に家族全員の分をつくったのは覚えている。たぶん美味しいと食べてもらったのだろう(実際に美味しかったかどうかは別にして)。以降、日曜日の目玉焼きづくりは私の役目となった。


当時の我が家には目玉焼きに適した、かつ子どもでも扱いやすい小さ目のフライパンがなかったので玉子焼き器で代用していた。当然出来上がりは四角い目玉焼きになる。おまけに玉子焼き器にはフタがないので適当な鍋のフタを使って蒸し焼きにしていた。だが四角い卵焼き器に丸い鍋のフタでは8割ぐらいしかフタとしての役目を成していなかった。色々と納得のいかない目玉焼きしか焼けないのを私は四角いフライパンのせいにして、母に丸い小さなフライパンが欲しい、とねだった。やはり目玉焼きは丸くないといけない。


普段は簡単に私のおねだりを聞き入れない母が、珍しく次の日曜日に間に合うように小さな丸い鉄のフライパンを買ってくれた。とても嬉しくて日曜日が待ち遠しくて仕方がなかった。
かくして次の日曜日から我が家でも丸い目玉焼きを焼くことができるようになったのだが、もうそれだけで満足してしまったのか、いつの間にか日曜日の目玉焼きはまた母がつくるようになっていた。今までと違っていたのは丸い正しい目玉焼きになったことぐらいだ。
母はおそらく、娘を料理好きにするチャンスと丸いフライパンを買い与えたのだろうけれどその目論見は見事に外れ、その後の私はまともに料理をすることはほとんどなかった。


時は流れて結婚後、何かと役に立つ小型のフライパンは最初から持っていたのだが、今度は玉子焼き器を長らく持たなかった。なので玉子焼きを焼くときは丸いフライパンを使っていた。だがこれがまた上手く焼けない。何年ものあいだ丸いフライパンで奮闘し歪な形の玉子焼きを焼いていたが、ついに一念発起して数年前に玉子焼き器を買った。するといとも簡単に玉子焼きらしい形の玉子焼きを焼けるようになった(美味しい玉子焼きであるかどうかは別にして)。今までの苦労はなんだったのだ。


道具というのはある程度代用が利くものだし、工夫して少ない道具を使いまわすのが生活上手だとは思うけれど、こと目玉焼きと玉子焼きだけに関しては適材適所という言葉を思い出さずにはいられないのだった。

競争に勝てなくても負けとは限らない話

一人っ子だからなのか、競争が苦手でいつもどんけつだった。大人になってだいぶ経った今ではそれなりに要領が良くなったのが不思議なぐらいである。負け戦にはそもそも手を出さなくなったというのもあるだろう。


子どもの頃は何かにつけ競争に晒される機会が多い。
たとえば理科の実験の時。一人一本ずつ試験管を使うのだが、先生が配るのではなく児童が各自、試験管のたくさん入った箱に取りに行くというシステムだった。当然競争になる。
程よいサイズのきれいな試験管は早い者勝ちで要領の良い子が手に入れる。とにかくこういう場面でのろまだった私は、バーゲンセールさながらの試験管の箱の前で右往左往するばかり。皆が席に戻るころにようやく箱の中を覗き込むと、汚れたり割れたりしたものや極端にサイズが小さいか大きいもの、そんな試験管しか残っていなかった。いったいどの要素を妥協してどの試験管を選んだのか覚えていないが、甘んじて受け入れていたのは覚えている。

この一連の流れ、たぶん今どきなら問題になりかねないのだろうけど、当時は呑気な世の中だった。


またある時は、お絵描き教室で素焼きの器に絵付けをする課題の日があった。

動物の形をした器がたくさんあって各自が好きなものを取るのだが、ここでも私は出遅れて手に入れたのはカエルの形の器だった。ウサギやイヌといった可愛い器はあっという間に無くなってしまった。ちなみにこの後の顛末は幼心にもちょっとショックだったので、別の機会に書こうと思う。


実はいい加減大人になってからも盛大に競争に負けたことはある。
就職したての頃、職能団体の新人研修の一環でグループごとに飯盒炊さんを行う機会があった。協力関係と親睦を深めるというアレである。
7~8人ぐらいの班が10グループぐらいあったと思うが、ここでも食器や調理器具は早い者勝ちというシステムだった。
私は調理器具の担当だったが案の定すっかり出遅れてしまい、柄のついていないお玉しか残っていなかった。カレーを作るのに柄のないお玉は相当きついものがある。だからというわけではないと思うが出来上がったカレーはシャバシャバのゴリゴリだった。キャンプなどではよくある話である。
しかしこの時は私のみならず、班員全員がのんびり屋だったようで、なんとテーブル(野外の、椅子も固定されているあれ)を取る競争にまで負け、レジャーシートに胡坐をかいて円陣を作って食べた。班員の親睦がそれはそれは深まったのは言うまでもない。そもそも柄のないお玉を大笑いして許容してくれたようなメンバーだ。
どんけつも何も悪いことばかりではないひとつの例である。

ヤンママという表現はもはや死語なのかもしれないが

「ヤンママ」とは「ヤングな」ママなのか「ヤンキーな」ママなのか。仮に「ヤングな」ママだとしたら、わが実母はかつてヤンママだった。ヤンキーではなかったと思うのでもしかすると間違った表現であればご容赦願いたい。
とにかく母は21歳の若さで私を産んだ。当時としてはさほど珍しくはないのかもしれない。ただ自分が21歳の頃を思い起こせば遊んでばかりの学生だったので、わが母ながら大したものだと思う。
赤ちゃんの私を抱いた母の写真は、超ミニスカートにピタピタニット、とか、裾の広がったパンタロンにトンボの目みたいなサングラス、とか、ロングでふわふわ真ん中分けのパーマ、とか当時の若者の流行最先端、といった風情である。
私がまだ幼稚園に入る前、プレ幼稚園的な幼児教室とでもいうのか、そういうのに通っていたのだけど、秋に芋掘りのイベントがあった。芋掘り、言ってみれば農作業である。その時の写真に写っている母の姿は、真っ赤なミニスカートに紺ブレ、細いヒールのピタピタロングブーツという、およそ芋畑では見かけないTPOのかけらもない恰好だった。その横で私はサルみたいな顔で芋を頬張っている。カオスである。
集合写真でも周りから浮きまくっているのに母は満面の笑みである。強い。

そういえば義母が町内の溝掃除の折に「若い女の人なんやけどヒールの高いサンダルで来て作業もせずにただそこに居るだけ!」などとぷりぷり怒っていた。若かりし頃のわが母を見たような気がした。

プロテインって美味しいの?筋肉を増やしたいアラフィフがプロテインを飲んだら②

筋肉を増やすため、ちょっとしたエクササイズと同時にプロテインを摂取し始めた。

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といってもムキムキになりたいわけではなく近い将来のフレイル防止のため。
そういう意味では私より4歳年長の夫は更に危機が現実味を帯びてきているわけだが、私以上に運動不足で腰や膝がどうのこうのと言いだした。
そんな夫もプロテインを飲み始めた私に触発されて「俺も飲んでみよかな」と興味を示し始めた。まずは筋トレだと思うけどな。
夫の部下が本気の筋トレをやっていてプロテインに詳しいらしく、美味しくてコスパの良いプロテインを教えてもらったとかでさっそくAmazonで取り寄せたのがこちら。

なんかオシャレなパッケージだな。やっぱり定番のチョコ風味は人気。
筋トレはさておき、夫もプロテインを飲み始めたところ「…なんかプロテイン飲んだ後、胸やけというか胃もたれというかそんな感じなんやけど、気のせいかな。」
どうやろなあ、と言いつつ数回飲んでもやっぱり胃が不調を起こすらしい。
調べてみたらそういう症状がでるケースはままあるらしい。そういえば夫、軽く乳糖不耐症気味ではある。なるほど、そりゃ合わない人もいるか。残念やったな。
仕方がないので、大量に残ったREYSのプロテインは引き続き私が飲むことになった。SAVASの買い置きがひと袋まるまる残っているんだけど仕方ない。

このREYS、飲んでみるとまあまあ美味しい。SAVASよりチョコ感がしっかり感じられるような気がする。が、やはり乳臭さは否めない。これはもうホエイの宿命なんだろう。

 

ところでプロテインで本当に筋肉量が増えているのかどうか。
エクササイズの後に飲むようにして半年以上が過ぎるが、しばらく続けてみようかなと思う程度にはちびちび増えている気がする。だがたまに減る。
そしてそして気のせいかもしれないけど。REYSを飲み始めてからの方が効率よく筋肉量が増えてる気がする。気がするだけかもしれないけれど。
体組成計にのっては一喜一憂する日々である。

プロテインって美味しいの?筋肉を増やしたいアラフィフがプロテインを飲んだら①

ここ数年、腰を痛めたり坐骨神経痛をやったりで散々な目に遭っている。そこで昨年あたりから一念発起してストレッチとゆるーい筋トレを始めた。たぶん公民館でやっている百歳体操ぐらいのゆるさの筋トレだけど、毎日の積み重ねとは大したもので少しは筋力がついた。そしてストレッチと組み合わせることで坐骨神経痛も克服できた。まあそもそもが運動不足過ぎたのだ。
大いに気をよくした私はさらに「貯筋」を目指すことにした。「真香ちゃん、それならやっぱりプロテイン。最近のは美味しいよ♪」という友の言葉を信じてついに試そうとしたのだけれど。
何しろ商品数が多すぎる。どれを選べばよいのやらさっぱりわからん。ので、まずはプロテインについて調べることから始めた。

 

プロテインとは、

  • たんぱく質である
  • 乳製品由来のものと大豆由来のものがある
  • 乳製品由来のものにはホエイプロテインとカゼインプロテインがある
  • 大豆由来のものはソイプロテインである
  • ホエイプロテインは水に溶けやすく吸収速度が速いため筋肉量の増加に向いているがお値段は高め
  • カゼインプロテインは水に溶けにくく吸収速度が遅いため腹持ちが良く筋肉の分解を抑制するのにむいており眠前に飲むと効果的
  • ソイプロテインは水に溶けにくく吸収速度が遅いうえアミノ酸が少なめなので筋肉量の増加には不向きだがイソフラボンの効果が期待できる

ざっくりだけど。いわゆるダイエット目的ではなく筋肉をつけたい私の場合はホエイが良いわけか。まあ少なくとも豆製品はよく食べるからソイはいらんな。

 

自分なりに条件を絞ってみる。

  1. ホエイプロテインであること
  2. 近くの店で手に入ること
  3. 美味しいこと
  4. 続けられる値段であること

というわけで近所のドラッグストアに行ってみた。
プロテインといえばSAVAS、というぐらい有名だと思うけど(まったく興味のなかった私でも知ってたぐらいだから)SAVASだけでもかなり種類が豊富。で、日ごろから鉄分が不足しがちな私に刺さったのが、これ。

鉄分以外にビタミンやらなんやら色々入ってるけど、それはまあいい。問題は味だ。
友から「牛乳とか豆乳で割って飲んだら美味しいよ♪」と聞いていたので、牛乳と豆乳、あとこの機会に試してみようとアーモンドミルクとオーツミルクも一緒に買って帰った。
さて。もともと体質的にあまり乳製品が合わないし、ただでさえ豆製品の摂取量が多いから豆乳を毎日飲むのは避けたいし、アーモンドミルクもオーツミルクも牛乳や豆乳と比べるとお高めなので、水だけで溶いて飲める味かどうか、これが大事。
専用のシェーカーを買おうか迷ったけど、とりえあえず家にあった保温ジャーでええわ。水とプロテインを入れてシェイクシェイク。いただきます。
うーーーーん。不味くはない。ココアみたいな感じ。ただとにかく乳臭い。
風味の点ではソイの方が豆臭くて飲みにくい人が多いらしいが、豆好きの私の場合はもしかするとホエイの方がハードルが高いかもしれない。が、水だけでも飲めなくはない。各種ミルクで溶いたらこれは間違いなく美味しいと思う。


まず牛乳割り。期待を裏切らない美味しさ。乳で割るのに乳臭さが半減するのが不思議。
次にアーモンドミルク割り。これはもうアーモンドココアだ。とても美味しい。
そしてオーツミルク割り。イケる。さらっとして飲みやすい。
最後に豆乳。安定の美味しさ。うん、コスパ的にも豆乳で十分やな。
たまのご褒美に豆乳で割って飲むことにして普段は水で飲むことにしよう。さて、本当に筋肉は増えるのかな?

私のブログ遍歴と特売生活。特売生活といえば雷波少年。

昔、雷波少年といういわくつきの番組で「鮒子のViva☆特売」という「人は特売だけで生きていけるのか」をテーマにした企画があった。電波(でんぱ)じゃなくて雷波(らいは)の方ね。
今でもhuluで見られるようだけど、この企画は90年代の終わり頃か2000年代の初めぐらいだったと思う。

www.hulu.jp

どうもこの特売で生活する、という概念が当時の私にはとても印象的だったらしい。何しろその頃の私はこれまでの人生でいちばんハードモードだった。あまりに音沙汰がなさ過ぎて学生時代の友から定期的に生存確認が入るぐらいだったので、特売の時間に買い物など夢のまた夢。特売は「憧れ」だった。


そして月日が流れ寿退職した私は、めでたく特売生活を送ることとなる。夢の特売!
新婚当初は専業主婦だったのであまりにヒマだったのだ。しかも退職して収入を生みだせないからには節約するしかないではないか、という謎の使命感に燃えていた。
そしてあまりにヒマだったついでに「特売生活」というブログを今は亡きYahoo!ブログで書いていた。もう20年近く前のことだ。
文章を書きたい欲求を満たしてくれていたのもこのブログで、そもそも自分は文章を書くのが好きなのだ、ということを自覚したのもこの頃だったように思う。
読み返してみるとなかなか面白く、底値情報なども網羅されており、2~3日に一度という結構なハイペースで更新していた。が、1年足らずで止めてしまっていて、その数か月後にこれまた懐かしい、私にとっての元祖SNSであるmixiを始めている。
こちらはただの日記。自分で言うのも何だがこれもなかなか面白い。そしてSNSを通じての交流を楽しんでいた形跡も残っており(若干黒歴史感もあるが)遠い日の想い出、といった趣である。
そしてたぶんこのころには特売にも飽きてしまっていたのだろう。特売巡りは当時の私には憧れや物珍しさもあって、つまり一過性の熱だった。
雷波少年の鮒子さんはママチャリで大爆走しながらの特売巡りでそこもまた見ごたえがあった。対して私はしょせん車での特売巡りだったから、ガソリン代を考えるとさほど節約にはなっていなくてアホらしくなった、というのもある。


いずれにしても、また日記というか随筆というか、とにかく散文を書きたくなったのでこのブログを始めることにした。SNSもひと通り経験してまたブログという場に戻ってきたのだけれど、飽きっぽい私のこと。さてどうなるかな?